消える時間軸と歪む空間と意識(九月五日編)

重力のある星に住む私たち全人類からすれば宇宙空間に存在するものを理解することは到底不可能であろうし、第一に「浮遊」という感覚を知ることは微塵もないだろう。Macintoshの初期設定のままの壁紙をぼんやりと見つめながらそう思う。二次元の宇宙空間に思いを馳せることは究極に意味のない時間の使い方のように思えて自嘲気味に笑いながら、それでも銀河系の中に潜り込んでゆく妄想をせずにはいられなかった。ここが宇宙なら重力にさえ縛られずにどこまでも飛びながら生きてゆけるのに。僕を縛る人間や時間やタスクの煩わしさは僕に一瞬の隙を与えた。今日の九時から重役と会議、通勤途中で急遽上司から頼まれている書類を作りながら駅前のコンビニで昼飯を買う。十時半には向こうの会社を出て支店に顔を出さなければならない、深夜留守電に入っていた母の声を思い出す。「たまには連絡くらい入れなさい、生きてるの?ーーーー」二週間前から彼女は家を出てしまっている。いつもは甲高い声の彼女から漏れた最後の言葉は低く響いていた。なんて言っていたっけ……「あなた」「私のこと」「愛していないんなら」「早く私を」「解放してよ」今月はまだ休みをもらっていない。僕は玄関を出る前に縛っておいた雑誌の束からロープを解いて、ドアノブに首を括り付けた。次に目を覚ましたのは漂白された病室だった。会社の人間が、今日の会議についてメールが届いていないのを不審に思い僕を訪ねたらしい。僕はまた彼らによって地獄へ引きずり堕ろされてしまったようだ。僕の左腕は麻痺してしまっていたけれど、利き腕は右腕だったからナイフを身体に突き立てることは容易だった。僕はそれでも死ななかった。ナイフの代わりに、ボールペンを使ったからだった。親父に殴られて、母親はうっ血するほど泣き、実家に帰っていた彼女はごめんねと繰り返しながら僕を優しく抱いた。全てが僕をきつくきつく縛り上げた。逃げられない。

四年前の十月

乾いた愛の音を聞いている。
「コーヒー飲む?」「うん」砂糖とミルクの配分など既に覚えてはいないけれど、偽りかもしれない愛の記憶を頼りに手を動かせば不味くはなさそうなコーヒーが入った。不自然に二人を詰め込んだリビングルームで無言の雑音をBGMにコーヒーを啜る。

「……ぬるい」
「ミルク、いれすぎたかも」

舌をざらつきながら喉を通る液体を味わう空間は彼にとって日常のヒトコマだったけれど、目の前に座る彼女の素っ気ない睫毛を何とはなしに覗くのは、いつぶりだったろう。

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僕らに濡れた関係がなくなったのは、四年前のことだ。四年前の十月に最後のセックスをして、それからはやり過ごすようにお互いの身体を避けた。お互いの身体「だけ」を避ける二人の違和感は徐々に世界を侵蝕していったけれど僕も彼女も見ないふりをして侵蝕を受け入れるように生きたから僕らはもう救われない。

初めてセックスをした日から感じていた微かな恐れがあった。満ち満ちている身体と精神と彼女の笑顔と「幸せ」という言葉にオプション「愛してる」。僕は彼女の身体という宝箱へあらゆるものを詰め込んだけれど、時間は宝箱を脆くさせていく。これは知っておいた方がいい。僕は彼女に触るたびに彼女の魅力が色褪せていくのを感じていた。きっとそれは彼女も同じだったのだろう。僕らは次第にセックスで絶頂を迎えることを忘れ、僕は昂りを忘れ彼女は潤いを忘れた。最後のセックスは乾いた音しか聞こえなかった、僕らはもう「愛してる」と伝えるシーンを失ったのだ。それからの四年間で僕らは完全に枯渇した。それでも同じ空間に居続ける僕らに与える美しい言葉などありはしない。惰性は時にとても優しい。

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愛してると言ってみたい瞬間がある。そんな陳腐な言葉に何を期待する訳でもないけれど、音感に閉じ込められた過去の記憶は音感によって思い出されるのではないかしら。やっぱり、期待してる。嘘でもいいから思い出したい愛を知っている。
私の身体に感じる彼がもういなくなってしまったことを私は彼が気付く前から気付いていた。きっと。彼は私に触れる機会を避け続けた。あるいは求めなかった。私は変に自然とそれを受け入れて身体に記憶したから、それ以来私は彼に欲情したりはしない。私たちはそれ以来不思議なことに以前よりも混ざり合うように空間と時間を共に生きたけれど人間的ではない二人の間に生まれ続けるものはもうなかった。死んでゆくだけだった。

 

「……思い出しちゃった」

私は長いこと見つめていなかった彼の顔を見た。混ざり合ったはずの彼の顔を忘れていたことに驚いて、すぐに納得しながら、彼は今の私と同じ顔をしているのだろうと推測した。

「……『愛してる』」

「……ありがと」

どこか適当な時間軸から引用された鍵括弧付きの彼の言葉は残酷に優しい。


コーヒーはとうに冷めていた。

ボランティア

「おはようございます」

粘つく朝の挨拶は虚しく滑る。45リットルのゴミ袋はたちまちに埋まってゆく、街中に散布された人間の悪意を僕は毎週金曜日の早朝にかき集めては捨てるのだ。
駅へ向かう人々の眼に自我を見ることはできない。正確な周期に基づいて自らを殺す人間達の多さに僕はため息をついてしまう。また一人、短くなったタバコをアスファルトへ埋める人間を傍らにして、新しいゴミ袋を呼吸させるように広げれば怪訝な顔を人々の間に生み出すことは簡単だった。その表情は僕の胸を打ち鳴らすのに十分すぎる。

公衆トイレから漂うすえた臭いは嫌いじゃない。反対に、人間達の本当の臭いを誰も受け入れようとしないことが不思議だった。散り散りになったトイレットペーパー、乾いたガムのアップリケ、黄色くなった使用済コンドーム。僕はそれらに血の繋がり以上の親近感を覚えた。割れた鏡には僕の顔がスライドするように写っている。あらゆる表情を継ぎ接いで作った仮面を思う。

八月の第三金曜日のことだった。
夏の公衆トイレは凶悪な香りで満ちる。丸々と太った蛾を踏み潰しながら、僕はいつもの親近感の中に絡まる甘酸っぱい香りを嗅ぎ分けた。
奥から二番目、空室の青が主張しているけれど扉は閉まったままだった、「誰かいますか」呼びかける声への反応はない。無理矢理に押し開くと黒いパンプスが覗く。女だ。ストッキングは皮膚を剥がされるように裂けている。ギイイ。扉はつかえて最後までは開かなかったけれど、”女だったもの”の赤く散った胸や使い回された女性器や赤黒く腫れた顔や首に巻きついた鞄の細い紐は全く問題なく確認できた。

「これは……一枚じゃ、足りないかな……」

分別に困る。不法投棄は厄介だ。

金環日食

太陽だって穴は空くんだ。


乾いた白米の塊を水で流し込みながら暗くなった明け方を肌で感じる。水はいつも通りカルキの臭いで濁っている。五月二十一日。何曜日かは忘れてしまった。高い声の群れが微かに通り過ぎるからきっと平日だ、そして恐らく彼らは僕と同じ学校に通う生徒だ、憶測でしかないけれど。

割れる音がする。割れる音がしたような気がする。僕の耳は既にほとんど使い物にならないけれどそのかわりに肌が過敏になった。空気の振動を肌で感じる。割れる音は僕を震わせてから身体を強張らせるチャンスをくれる。硬くなった身体に降るものは人間の手と思えないほどにごつごつと冷たかった。ひやりと感じる床の冷たさを頬で感じて眠たくなる。遠くで微かに怒鳴る音を聞いて、耳が使い物にならなくてよかったとこういうときに思う。静かに眠ることだけが僕の幸せだったから。

何万匹もの羊が目の前を飛んでいって眼が覚める。澱んだ窓の向こうで鳥が囀るのがなぜかはっきりと耳に届いて僕は飛び起きた、希望が見えたような気がしたから。開かない窓に張り付いて鳥を眼で追う。真っ青で小さな鳥がちらちらと羽ばたいて僕の目の前で踊った。きれいな色だと思った。昔のように、僕の手で君をキャンバスに写し出せたならどんなにか素敵な色になっただろう。夢を見て僕は微笑んだ。僕が笑うのを見て、青い鳥は太陽に向かって羽ばたいたのを最後に、それを追う僕の網膜は穴の空いた太陽にすっかり焼き尽くされてしまった。

とまれみよ

それは冬を告げるランプが僕に合図するのと同時だった。
大きく弧を描いた星座は進むべき方向を示してくれていたから僕は何の心配もなく森を抜けることが出来た。走ることに慣れていないせいか不安とは関係なく心臓は強く僕をノックする。扉を開けるわけにはいかなかった。僕は心臓をしっかりと施錠して鍵を失くさないよう心の奥底にしまった。血液の騒ぐ声も聞かずに抜ける森は僕を傷つけた。鋭い葉は皮膚をさらっていったけれど眼に見えるものに大事なものなどないから頬を濡らしながら暗闇を切った。僕にそう教えてくれたのはとくちゃんだった。とくちゃんは左腕を失くしてしまっていたけれどとてもとても長い睫毛が生きていたから美しかった。既に記憶の中でしか会うことのできないとくちゃんに毎日笑いかける、おはよう、げんき?いいてんき。灯りを消すね、もうねむるね、とくちゃんはいい夢をみてね。ぼくのかわりに。おやすみ。おはよう。げんき?僕の時計。とくちゃんの心臓は僕の時計。とくちゃんの心臓は僕の耳になった。僕の耳は囁く、今は真夜中2.5時。僕の耳は囁く、夜明けまであと3.75時間。でもそんなに焦らなくていい、僕を追いかけるものは誰もいなくなった。少なくともランプが消えるまでは。ねえ、きみ、僕のかわりに後ろを見てくれない?怖くて振り向けないんだ。お願いだよ。

浴槽の中だけが私の

蒸気した頬に籠る音楽に溶ける。左肩を撫でる水面、右耳を犯す水音、膝を折り曲げ不自然に首を曲げながら左手は外の音楽に合わせて水面を叩いている。私を閉じ込める蓋が青く透けて酸欠状態の私に優しく映る、手を伸ばしたら水滴が指を伝って肘で溶けた。晴天から注ぐ雨のようで神様の私は酷く楽しい。浴槽の中には私の掠れた歌声だけが生きている。瞬きの音までが響く。お気に入りのアルバムを一周歌ってから浴槽の蓋を開ける。酸素の踊り食いをしているように苦しくなってしまう、いつものことだ。酸欠よりも苦しいなんて、外の世界にはどれだけの不純物が蔓延しているのか恐ろしい。冷えきったタイル張りの浴室に流す温度は一瞬で私の視界を曇らせてしまった。
私が美味しそうな蜂蜜の香りでコーティングされた頃、いつも我慢できずに達してしまう。石鹸は最初の大きさよりもだいぶ小さくなった。きめ細やかな固い泡で包まれるとプレゼントしてくれた彼が肌を撫でているような気がする。腕、足、背中、胸、そして……身体の中まで甘く染まることにエクスタシーを感じる、彼の顔が浮かぶ。あれから一度も会っていない。「別れよう」という言葉だけがピリピリと肌を刺激するからそれさえ快感だった、私はどこかおかしいのだろうか。お湯をかけても泡はなかなか流れ落ちてくれない。甘ったるい香りを閉じ込めるように、私は再び浴槽の蓋を閉めて、歌った。

メリークリスマス

彼女の細い指に似合うだろうピンクゴールドを温めながら横浜駅で彼女を待つ19:54。日曜に仕事のある僕に合わせて20:00にいつもの場所で待ち合わせた。間抜けな着信音と共に[もうすぐ着くよ]の文字、改札の向こうに見えた彼女は一足遅れて僕を見つけたようで、いつものきらめくような笑顔を見せてからIC乗車券をかざし、料金不足で構内に引き止められてから、ばつの悪そうな顔をして、清算を終わらせ小走りで僕の中に入ってきた。さむいね。うん、さむい。自然と手を絡ませ駅を後にする。僕と彼女の歩幅は全く違うけれど、呼吸の拍子はほとんど同じだった。白い息が生まれるたび二人の間で混ざっていたからだった。

普段は陳腐な光もこれほどまでに散りばめられれば眼を見張らずにはいられなかった。プラネタリウムのような街を静かに眺める彼女をそっと覗くと、大きな眼の中には宇宙があった。街よりもずっと彼女の方がきれいだったけれど、何万もの男がきざに吐いたであろう台詞を使い回すのは躊躇われたから言葉をキスにして投げかけると、二度目のキスで宇宙は閉じてしまった。風が冷たい。手がじくじくと痛む。彼女の鼻も、少し赤い。


「夜遅くになっちゃって、ごめんな」
横浜の光を映し出したパノラマの窓が彼女の横顔をしとやかに照らす。鴨フォアグラのソテーをフォークで弄んでいた彼女の顔が一瞬当惑の表情に歪み、すぐに笑った。
「ううん、気にしてないよ。わたし、会えただけで嬉しかったもん」
お仕事忙しいのにありがとう、そう言って彼女はまた笑う。デザートが運ばれてから、僕はやっと鞄の奥にしまい込んでいた小箱を渡すことが出来た。
「これ、プレゼント。メリークリスマス」
僕の想像していた以上にひとしきり彼女は感動してから、小さな箱を開けてうわー、とかひゃー、とか感嘆の声を漏らして、左手の薬指にくぐらせた。シンプルだけれどかわいげのあるピンクゴールドの細い指輪はやっぱり彼女にぴったりだ。そのあとも二回ありがとうという言葉を発した彼女は、実はね、私もクリスマスプレゼントあるの、と楽しそうにコーヒーを飲みながら言った。
「またあとでね」
へへへ、と笑う彼女が愛しかった。


深夜の横浜駅はいつも少し騒がしい。特に今日なんかは一層に。終電を間近にしたカップル達は別れを惜しむようにキスをしたりなにか囁き合ったりしている、僕はそれらを見て見ぬふりをしながら彼女の手を心なしか強く握ってしまった。
「じゃあ……今日は、ありがとう」
眉を下げた彼女が改札の前で僕を見る。うん、たのしかった。ありがとう。僕も白い息をはふはふと吐き出して言った。改札をくぐろうと僕の手を離した彼女が、あっ、と声を上げて思い出したように鞄を探り出して、ほんのしばらくごそごそとやってから、僕に手を突き出して、今日一番の笑顔でこう言った。
「これ、私からのクリスマスプレゼント。メリークリスマス」
何も言えない僕を放って、じゃあね、と手を振る彼女と背を向ける彼女と一番線のホームに上がる彼女をたっぷりと見つめてから、僕の手の中のものをもう一度見た。手の中には、さきほどまで僕の鞄を占領していた小箱が収まっていた。彼女は一度も振り返らなかった。