到来

大きな樹の下では雨が降っている。舞うように振る大雨に打たれて俺は傘を忘れたことを悔やんだけれど俺と同じように傘を忘れて佇んでいる女の姿があった。黒く長い髪が女の横顔を隠している。女の髪は妙に艶めかしく俺の心臓はいつもと異なる跳ね方をするのがわかった。

「傘を、忘れたんですか」

女は俺の声に振り向いた。不健康な顔色が黒い髪と良く調和していた。眼が濡れている。泣いていたのだろうか。噛み締めていたらしい唇の赤みがグレートーンな女に映えて俺の眼は既にそこにある赤から眼が離せなくなってしまった。女の唇が、ええ、と動いた。会話はそこで途切れた。大粒の雨が視界を阻むので俺は眼を閉じる。瞼の裏側で色が踊っている。暗闇を追い求めるように眼球を動かすと眼に焼きついた赤い唇が浮かんできて、ふと昨日抱いた女を思い出した。名前も知らない女だった。

「私が見える?」

女の声のする方へ眼を開くと寂しそうな横顔に沿って濡れた痕が赤い唇に滲んでいた。涙を流している理由など俺にはどうでもいい。俺の心が冷たいのはきっとこの冬の雨のせいだろう。もしかすると女の頬も雨に濡れたのかもしれない。そう考えている間に女の顎の先からぽたりと水滴が落ちて、そっと地面に染み込んでいった。女の涙が滲んでいった地面を見つめて、アア、女は確かに泣いていたのだ。俺は恐ろしさよりも寂しさを感じた。寂しさよりも愛しさを感じた。涙で染まった地面には、女の足などどこにも無かった。


強く風が吹き抜けて俺は眼を塞いだ。強く、爽やかな風が俺を洗い流していく。眼を開けた先に女はいなかった。桃色の雨が音も無く降り続いている。女の涙を探すように俺は芽吹く地に手を付いて、泣いた。