四年前の十月

乾いた愛の音を聞いている。
「コーヒー飲む?」「うん」砂糖とミルクの配分など既に覚えてはいないけれど、偽りかもしれない愛の記憶を頼りに手を動かせば不味くはなさそうなコーヒーが入った。不自然に二人を詰め込んだリビングルームで無言の雑音をBGMにコーヒーを啜る。

「……ぬるい」
「ミルク、いれすぎたかも」

舌をざらつきながら喉を通る液体を味わう空間は彼にとって日常のヒトコマだったけれど、目の前に座る彼女の素っ気ない睫毛を何とはなしに覗くのは、いつぶりだったろう。

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僕らに濡れた関係がなくなったのは、四年前のことだ。四年前の十月に最後のセックスをして、それからはやり過ごすようにお互いの身体を避けた。お互いの身体「だけ」を避ける二人の違和感は徐々に世界を侵蝕していったけれど僕も彼女も見ないふりをして侵蝕を受け入れるように生きたから僕らはもう救われない。

初めてセックスをした日から感じていた微かな恐れがあった。満ち満ちている身体と精神と彼女の笑顔と「幸せ」という言葉にオプション「愛してる」。僕は彼女の身体という宝箱へあらゆるものを詰め込んだけれど、時間は宝箱を脆くさせていく。これは知っておいた方がいい。僕は彼女に触るたびに彼女の魅力が色褪せていくのを感じていた。きっとそれは彼女も同じだったのだろう。僕らは次第にセックスで絶頂を迎えることを忘れ、僕は昂りを忘れ彼女は潤いを忘れた。最後のセックスは乾いた音しか聞こえなかった、僕らはもう「愛してる」と伝えるシーンを失ったのだ。それからの四年間で僕らは完全に枯渇した。それでも同じ空間に居続ける僕らに与える美しい言葉などありはしない。惰性は時にとても優しい。

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愛してると言ってみたい瞬間がある。そんな陳腐な言葉に何を期待する訳でもないけれど、音感に閉じ込められた過去の記憶は音感によって思い出されるのではないかしら。やっぱり、期待してる。嘘でもいいから思い出したい愛を知っている。
私の身体に感じる彼がもういなくなってしまったことを私は彼が気付く前から気付いていた。きっと。彼は私に触れる機会を避け続けた。あるいは求めなかった。私は変に自然とそれを受け入れて身体に記憶したから、それ以来私は彼に欲情したりはしない。私たちはそれ以来不思議なことに以前よりも混ざり合うように空間と時間を共に生きたけれど人間的ではない二人の間に生まれ続けるものはもうなかった。死んでゆくだけだった。

 

「……思い出しちゃった」

私は長いこと見つめていなかった彼の顔を見た。混ざり合ったはずの彼の顔を忘れていたことに驚いて、すぐに納得しながら、彼は今の私と同じ顔をしているのだろうと推測した。

「……『愛してる』」

「……ありがと」

どこか適当な時間軸から引用された鍵括弧付きの彼の言葉は残酷に優しい。


コーヒーはとうに冷めていた。