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美しいと思っていた彼女は近くで見ると化粧が浮いていたし、眼を合わせると白目はボンヤリと黄色かったし、キスをすると歯並びの悪さが舌に伝わった。

シャワーから戻った彼女の頬は上気していて色っぽいが、それだけだ。化粧を落とした彼女の顔は整ってこそいたが、個性もない。この程度の顔は五万といるだろう。話もたいしておもしろくない。感情のこもらない相槌を気にすることなく、興味のない話を楽しそうに喋る姿は壊れたブリキ人形を思わせたが、聞き心地の良い声だけが救いだった。
僕はいつのまにか眠っていた。


ずっと好きだった人だ。職場で知り合って一年、僕はゆっくりと彼女に気に入られる努力をしたし、不自然じゃない程度に彼女の近くにいるようにした。彼女はよく仕事ができて毎日素敵な笑顔を僕にくれた。僕が疲れているときはコーヒーをくれて、僕のやる気があるときは協力して頑張ってくれた。それは特別僕にだけというわけではなかったから、彼女を狙う輩は少なくなかっただろう。気が利く素直な女性だった。とても魅力的な人に思えた。

長いことかかっていた大きな仕事が片付いたとき、僕は初めて彼女を食事に誘った。食事といっても、近くの居酒屋でちょっとした打ち上げをするだけのものだったが、二人きりの時間はとろけるように楽しかった。僕はその日、舞い上がって服を着たまま風呂に入ってしまったくらいだったから。仕事の話はもちろん、彼女の家族の話や人生観の話、映画や本や音楽などの話をした。僕と音楽の趣味は少し違っていたけれど、違う部分も、嬉しく思えた。

彼女から教えてもらったアーティストのCDをレンタルした。通勤途中に聴くようになると、心なしか彼女のような性格に近づいている気がした。なんとなくキビキビと動ける気がしたし、笑顔も増えた。

それから何度か仕事終わりに食事に誘った。食事に行くようになってから、彼女と僕は少しずつ特別な関係になっていった。職場でも、彼女は僕に対して、微妙だけれど明らかに親密さのある話し方や笑顔を向けるようになったし、僕も彼女に対して、他の社員と比べて心を開いていた。稀に、個人的な悩みについてメールをもらうようにもなった。頼られている気がして嬉しくて、彼女のためになりたいと、ほとんど寝ずに彼女の悩みを聞き、解決方法を模索した夜もあった。


彼女が音楽を聴きながら出勤してきたときチラリと見えた再生中の画面に、僕が薦めたアーティストの名前が見えて僕はドキリとした。ドキリとしたあと、顔が熱くなった。「おはよう」「おはよう」平静を装いながら、僕はいまキチンとおはようが言えただろうか?自分の声が遠かった。彼女も僕と同じだったのだ!僕は彼女の好きなアーティストを聴き、彼女も僕の好きなアーティストを聴いてくれていたのだ。僕がそうであるように、彼女も僕を構成する一部分を取り込んでくれていることを、一人喜んでいた。


そして、ある冬の夜に、僕は彼女に告白した。


彼女は少しの間フリーズしていて、口を開け、閉めてまた開けてから二秒後に、やっと返事をしてくれた。僕は思わず彼女を抱きしめてしまった。ああ、本当は、もっとゆっくり時間をかけて彼女に触れようと思っていたのに。そんな決意も忘れて、彼女をきつく抱きしめた。彼女は苦しそうに、それでも嬉しそうに、「苦しい」と言った。

それから半月、僕たちは初めてキスをした。軽く軽くキスをした。そしてまた半月して、今度は深いキスをした。そして一ヶ月して、僕は初めて彼女の裸を見た。彼女の裸はキレイだけれど、ところどころ古そうな小さい痣があったり、あばらが薄く浮いていたりした。肌は白くて柔らかかった。僕はとても時間をかけて、ゆっくりゆっくり、彼女を解した。彼女の声は控えめだったけれど、艶のある声だった。汗の香りに、興奮した。

 

彼女とセックスをしたのはこれで何度目になるだろう。愛を伝えるための手段であったセックスはもはやここにはないのかもしれない。僕は彼女に慣れきっていた。彼女がどう思っているかは知らないけれど。彼女の内側を知るうちに、出会った頃感じていた特別な感情がどんどん薄れてゆくのを感じていた。特別だと思っていた、彼女の笑顔や素直さやセンス、優しさや一生懸命な性格は、彼女を手にした今、冷静に周りを見渡せば少なくない数の人間が持ち合わせているようなものだったし、彼女の美しさも特別なものではなかった。不思議なことに、今まで気がつかなかったけれど職場には彼女より美しい女性は何人もいた。彼女の素晴らしいと思えたはずの人生観はよく聞くとところどころ穴があったし、日によって主張が違うことも何度かあった。彼女も不完全な人間だったのだ。周りと同じだった。特別な所なんて、どこにもないのだ。僕はもう、彼女がどうして好きだったのか、思い出せなくなっていた。思い出すために、セックスをした。変わらないのは身体だけだったから。


狭い部屋に「好きだよ」という声が響く。彼女の控えめで高い声が響く。全てがウソだった。思い出すためのウソだった。