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性癖

古い枝の折れる音を最後に聞いたのはいつ?

僕は爪切りを差し出しながら彼女にそう問いかけた。彼女は爪切りを受け取りながら、僕の言葉の意味がわからなかったようで再び聞き返す。

「だから、ね、枝の折れる音を最後に聞いたのはいつだったか、覚えてる?」
「そんなの……覚えてるわけないじゃない。あなた、覚えてるの?」
「いや……覚えていない。でもきっと、僕も君も、ずっと子どもの頃のことだろうね」

彼女は既に僕の言葉からは意識を離して左手の爪を切っていた。これは僕のお願いだった。彼女と付き合い始めて3日目に、これからは一週間に一度、僕の前で爪を切ってくれと頼み込んだのだ。以前付き合った女性たちにも、毎回頭を下げてきた。これまでの女性たちの怪訝な顔は焼き付いている。ただ、僕にとってはそんな顔などどうでもよかった。

パチ、パチ、パチ、パチ、パチ。
彼女の爪が切られる音を聞くのは何度目だろうか。僕はこの音が好きだ。生易しい言葉を使わずに言えば、「性的に興奮してしまう」。パチ、パチ。パチ。微かに荒くなる呼吸をごまかすように、ぬるくなったコーヒーを啜った。パチ、パチ。爪を切る動きが止まった。薬指と小指を残して。

「どうしたの」
「ねえ、聞いてもいい?」
「……なに」
「あなた、この音が好きなの?」

パチ、パチ、パチ。薬指の爪が切られる。焦らされながら音を聞くのも悪くないと僕は恍惚に浸りそうになるのを抑えて、そうだよと言った。ずいぶん悦さそうな顔をするのね。彼女は気付いている。それ以上言ってしまうと、もう戻れなくなる。

「悪いけど……。あまり、聞かないでくれるかな。こんなの、ペラペラ人に言うものじゃない」
「目の前で爪を切ってくれって懇願したのはあなたでしょ?ねえ、いつからこの音が好きなの?」

目の前の彼女は好奇心と加虐心の入り交じった表情で僕を覗いた。興醒めだ。醜い顔など見たくもない。

「ねえ、何がきっかけなの?興奮してるんでしょ?あなた。変態ね。ほら、」

パチ、パチ、パチ。最後の手指の爪が切られた。追い打ちをかけるように、彼女は足の爪を切り落としていく。パチパチパチ、パチパチパチ、パチパチパチ……。勢いよく十本全ての爪を切り終わると、彼女は僕の股間を見て、また変態と言った。

「僕が十歳の頃、」
「え?」
「僕は母と電車で街へ出かけた。贔屓にしている画家の展覧会があるとかいってね。僕は先頭車両で、座席に座って窓の外をずっと眺めていた。しばらく走って電車がどこかの踏切を超えたとき、突然電車が急停止したんだ。人身事故だった」
「……突然なんの話?」
「窓の外には意外にもなんの異変も感じられなかった。だけど、僕の座席の下……車輪の下からは、パチパチパチという軽い音と、なにかが弾けたり跳ね返ったりする振動が響いていた。僕は、それが、人間が巻き込まれて骨の砕かれる音だと一瞬でわかった。音はすぐに後方車両の方へ伸びていったけれど、僕はこの音を何度も何度も反芻した。2時間遅れて行った展覧会のことなんか、何も覚えちゃいないけど、この音だけはそれからずっと頭の中にあるんだ」
「……やめて」
「僕が初めて精通したのは、その日の晩だよ。あの音を思い出しながら列車の下を想像すると、どうしようもなく興奮して、触らなくたってイけるんじゃないかってくらい」

「爪を切る音は、そのときの音によく似てるんだ」

今僕はどんな顔をして彼女を見つめているのだろうか。彼女の怯えた様からして、きっと捕食者の眼で彼女を見つめているのだろう。でもまあ、いいか。興を削いだ彼女に、責任を取ってもらわなきゃ。

「ねぇ、もう我慢できない……。本当は、君の身体が欲しいんだ」

声を上げる間もなく彼女の細い首は簡単に捩じれた。手に響く振動とあの音で、僕は絶頂を迎えた。