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いつまでも幸せだった

「あーほら、またこぼしちゃうわよ」
「あーんして。そう、いいこいいこね」

母の料理はとても上手で、僕は子どもの頃から母の料理が好きだった。生まれてすぐの僕が写っている色あせたアルバムには、母の離乳食を美味しそうに食べる僕の姿があった。大掃除のときに出てきたビデオには、はじめてトイレで用を足す僕を見て、泣くほど喜ぶ母が写っていた。運動会のかけっこでいつも一位をとれなかった僕を、それでも僕が一番かっこよかったと励ましてくれた。僕が彼女にフられて落ち込んでいるときは何も言わずに僕の好物を食卓に並べてくれた。僕の大学受験の日は遠くの神社まで合格祈願に行っていた。合格発表の日に報告の電話をしたとき、僕はそれを父から聞いて、帰り道に母の好きな花を買って帰った。卒業式の日までその花はリビングに飾られていた。卒業式に出かける僕を見送った母は、午後に雨が降るとテレビが言っていたのを思い出して僕を追いかけて傘を渡した。折りたたみ傘を鞄に入れながら横断歩道を渡ろうとした僕に向かって大きなトラックが突っ込んでくるのを僕は気付くことができなかった。大きなバンパーが視界に入った瞬間僕ははね飛ばされてコンクリートで肘を擦りむき、僕をはね飛ばした母は頭を強く打って2ヶ月入院した。退院して家に帰ってきた母は、顔の右半分がただれてケロイドになっていて、僕のことを3歳児だと思いこんでいた。

「ほら、今日はターくんの好きなエビピラフよ」
「はい、あーんして」

「母さん、僕一人で……」

「ダメよ、こぼしちゃうでしょ?」


父は日に日に仕事場にいることが増えて、今ではほとんど顔を合わせることもない。先週久しぶりに顔を合わせた父は何かを言いかけて、息を詰まらせたあと、「ごめんな」と呟いた。僕に聞こえるか聞こえないか、恐らく聞こえなくてもよかったのだろう、父が言いたいことは溢れ過ぎて、決壊するのを恐れるように、固く口を閉ざしていたから、針の穴のようにあけた口の間から、ごめんなと呟くことのできた父を素直に尊敬出来る人間だと思った。

「ターくん?おいしい?」
「……おいしいよ」

3歳児の僕に向けて作られた薄味のエビピラフは、僕にとっては物足りなかった。それでも懐かしい母の味がして、鼻の奥が痛くなるから僕は本当に赤ん坊になってしまったみたいにぐずぐずと泣いた。僕が言いたかった言葉が両眼から流れ出してくるのを、母はティッシュで拭ってゴミ箱へ捨てる。僕があの頃と違うのは、声をあげて泣く方法を忘れてしまったことだった。