天使の声

先端恐怖症の俺でもスプーンの先なら丸くて怖くないと思ったんだ。沸騰した血液に追い立てられるようにスプーンの弧は穴へ吸い込まれていく。視力検査を思い出して右目で彼女の大きく開いた瞳を視認すると答えの代わりに出来るだけ優しく笑ってやった。痙攣を起こしている身体を抑えるようにゆっくりとスプーンを引き抜くとてらてらと艶めく糸を引きながら一拍遅れてぼとりと眼球が落ちて昨日買ったばかりの靴を汚したからこんな時にでも後悔の念が湧いて、暢気な性格はいつまでも変わらないんだろう、そう自嘲気味にまた笑って右の瞼にスプーンを押し付ける。可愛い声はいつもより高く俺の鼓膜を震わせた。声が止む前に処置を終えてしまおう、再び靴を汚す右目から生まれた落下物がなんだったのか俺にはもう確認する術はない。喉の奥から無意識に漏れる呻き声が止んだ頃、俺の視界は完全に光を捉える能力を失っていた。

沸騰した血液がシャツを濡らして体温を上げていく。両目から吹き出す諸々の液体は飽きることなく身体を伝って脈打つたびに痛覚を刺激した。失われた能力を補うように周囲の音を繊細に感じ取る鼓膜は彼女の表情までも無い瞼に映し出して脳の補完機能は侮れないと思った。こんなはずじゃなかったんだ。直後引き攣りながら俺の名前を呼ぶ彼女の声を確認してそんなちょっとした想定外は水に流すよ。

唐突に肩を揺さぶられる衝撃で足下が覚束なくなり先ほど生んだ諸々を踏みつけてから安定を得る。未だに染みを広げることを止めない血液でぐっしょり張り付いた両肩を抱えて彼女はなにか叫んでいる。両目に響く天使の声は少し痛かった。時々聞こえる鼻を啜る水音と咽せる喉声を聴いて俺はそのときにっこり笑った。

だってね俺思ったんだ。例えば君が俺の眼の前で死にたくなるような顔で泣き崩れたとしても俺はもう哀しまなくて済むんだ。君の鳴くような声ばかりを受け入れてえぐる前に見せてくれた笑顔を拾い集めて、俺は光のない世界でそうやって永久に幸せでいられるでしょう?俺の弱い心はそうでもしないと守れないから、それで君が俺の両目を見てどう思うかなんて考えられないからごめんねごめんね本当にごめんね。解像度の高い記憶の中の君の笑顔が俺を慰めてくれるからもっと俺の名前を呼んでよ。出来れば笑顔に似合う声で俺の名前を呼んで?君が幸せでいてくれるなら、俺はこのスプーンを君に渡すことだって厭わないのに。