アルタイルの恋

その場所は、掘るといっそう湿った土の匂いがした。
土を掬うシャベルのふちは不思議と泥を寄せることなくメノウのように滑らかで、月明かりに照らされるとまるで濡れているのかと見紛ってしまう。最後に見た彼女の瞳もずっと濡れていた。つるりとした黒い瞳に写る僕がぼやけて見えて、球面に合わせて変形した僕の顔を彼女は怖がっていたのだろうか?人の頭が入るほどまで穴が拡がった。また一台、車のライトが僕の影をスライドさせながら通り過ぎる。この辺りは宇宙がよく見える。ひっそりと、手の届かない暗闇を求めて、ここには人間が集まるのだった。そのまま、暗闇に救いを求めて帰らない人間もいるらしいと、誰かが甲高い声で言っていたのを思い出した。


腕が二本入るほどまで穴が拡がった。掘り出した土はふわりと軽く積もり周囲に匂いをまき散らせながら僕の居場所を教えている。動物たちはもう気付いている。また一台、車が遠くで通り過ぎ、ライトに照らされた森の中で一瞬だけ木の上の眼と眼が合った。内側から緑色に光るその眼は、僕を心配するように、ホウと鳴いた。人間よりよほど、彼らの方が優しいじゃないか。きっと僕がここで死んだら、残らず彼らが僕を食べてくれるだろう。そして、彼らが生きている間は、僕のことをその身体に記憶してくれるだろう。
肋骨と股関節が入るほどまで穴が拡がった。普段使わない筋肉は早くも強張りシャベルを汗でぬめらせる。深くなる穴の中で上着を一枚脱ぐと、籠っていた熱気が逃げるように森の中へ溶けていった。長い足でもすっぽりと入るほどまで穴が拡がった。地獄まで繋がるほど仄暗い穴が拡がった。僕は彼女にさよならを言って、土をかけながら、また会おうねと約束した。
きっと来世では、しあわせにしてあげる。

狼女

あ、きた。

全身の血が粘性を持ったような感覚は、満月と共に周期的に私の身体を流れる。頭にかかるもやは冷静さと私を切り離し、ある香りへの執着を蘇らせる。
青臭い香りと、鉄錆の香りを、私は求めていた。

「ねえ、君の彼氏、心配してるよ」

青白く脈打つ携帯の画面を、目の前の男は読み上げる。帰り遅いね、大丈夫?残業かな?だって。でも君、こんな顔じゃあ帰れないね?
既に血で濡れた拳を、彼は私の顔へ振り下ろした。衝撃は少ない。ぬるついた拳は、私の頬を滑って情けなく揺れる。


今の彼氏と付き合って、もう1年が経つ。普段から仕事でなかなか会えないせいか、彼は私の性癖には気付いていなかった。
彼は優しく撫でるように私を触る。壊れ物でも扱うかのように触れられる私の身体は濡れこそするが、冷めていた。それでも1ヶ月のうち20日間は私は彼の優しさで満たされることができた。けれど、抑えることができないのだ。月が大きくなるにつれて、私の身体は自分のものではないように凶暴さを求めた。満月の日、私はこうして都会へ出る。声をかけてくる人間は、不思議と私の欲求を満たしてくれる者だけだった。


「あ……もっと」

喋らなくていいよ。目の前の男はそう言って、首筋に噛み付いた。私の身体は震えて悦び、首筋に顔を埋める男の真っ黒な髪にさえ興奮した。男は私の髪を掴み、首筋から離れる。熱い。血が伝っていくのがわかる。男が私の腹を蹴る。腫れてほとんど見えない眼を男に向けると、端正な顔と黒い瞳が光を持たずに私を見つめていた。そういえば、名前を聞いていないと、どうでもいいことを思い出した。

「ほら、君、これが欲しいんでしょ」

男はチャックを下げ取り出したものを私の口に押し込んだ。味わう余裕もないままに喉の奥へ突き動かされ、酸素の欠乏は抗えない快楽を生む。もうなにも考えられなくなっていた。
殴られたい。飲み干したい。端正な顔の男は、少し喘いで、私を殴った。

いつまでも幸せだった

「あーほら、またこぼしちゃうわよ」
「あーんして。そう、いいこいいこね」

母の料理はとても上手で、僕は子どもの頃から母の料理が好きだった。生まれてすぐの僕が写っている色あせたアルバムには、母の離乳食を美味しそうに食べる僕の姿があった。大掃除のときに出てきたビデオには、はじめてトイレで用を足す僕を見て、泣くほど喜ぶ母が写っていた。運動会のかけっこでいつも一位をとれなかった僕を、それでも僕が一番かっこよかったと励ましてくれた。僕が彼女にフられて落ち込んでいるときは何も言わずに僕の好物を食卓に並べてくれた。僕の大学受験の日は遠くの神社まで合格祈願に行っていた。合格発表の日に報告の電話をしたとき、僕はそれを父から聞いて、帰り道に母の好きな花を買って帰った。卒業式の日までその花はリビングに飾られていた。卒業式に出かける僕を見送った母は、午後に雨が降るとテレビが言っていたのを思い出して僕を追いかけて傘を渡した。折りたたみ傘を鞄に入れながら横断歩道を渡ろうとした僕に向かって大きなトラックが突っ込んでくるのを僕は気付くことができなかった。大きなバンパーが視界に入った瞬間僕ははね飛ばされてコンクリートで肘を擦りむき、僕をはね飛ばした母は頭を強く打って2ヶ月入院した。退院して家に帰ってきた母は、顔の右半分がただれてケロイドになっていて、僕のことを3歳児だと思いこんでいた。

「ほら、今日はターくんの好きなエビピラフよ」
「はい、あーんして」

「母さん、僕一人で……」

「ダメよ、こぼしちゃうでしょ?」


父は日に日に仕事場にいることが増えて、今ではほとんど顔を合わせることもない。先週久しぶりに顔を合わせた父は何かを言いかけて、息を詰まらせたあと、「ごめんな」と呟いた。僕に聞こえるか聞こえないか、恐らく聞こえなくてもよかったのだろう、父が言いたいことは溢れ過ぎて、決壊するのを恐れるように、固く口を閉ざしていたから、針の穴のようにあけた口の間から、ごめんなと呟くことのできた父を素直に尊敬出来る人間だと思った。

「ターくん?おいしい?」
「……おいしいよ」

3歳児の僕に向けて作られた薄味のエビピラフは、僕にとっては物足りなかった。それでも懐かしい母の味がして、鼻の奥が痛くなるから僕は本当に赤ん坊になってしまったみたいにぐずぐずと泣いた。僕が言いたかった言葉が両眼から流れ出してくるのを、母はティッシュで拭ってゴミ箱へ捨てる。僕があの頃と違うのは、声をあげて泣く方法を忘れてしまったことだった。

性癖

古い枝の折れる音を最後に聞いたのはいつ?

僕は爪切りを差し出しながら彼女にそう問いかけた。彼女は爪切りを受け取りながら、僕の言葉の意味がわからなかったようで再び聞き返す。

「だから、ね、枝の折れる音を最後に聞いたのはいつだったか、覚えてる?」
「そんなの……覚えてるわけないじゃない。あなた、覚えてるの?」
「いや……覚えていない。でもきっと、僕も君も、ずっと子どもの頃のことだろうね」

彼女は既に僕の言葉からは意識を離して左手の爪を切っていた。これは僕のお願いだった。彼女と付き合い始めて3日目に、これからは一週間に一度、僕の前で爪を切ってくれと頼み込んだのだ。以前付き合った女性たちにも、毎回頭を下げてきた。これまでの女性たちの怪訝な顔は焼き付いている。ただ、僕にとってはそんな顔などどうでもよかった。

パチ、パチ、パチ、パチ、パチ。
彼女の爪が切られる音を聞くのは何度目だろうか。僕はこの音が好きだ。生易しい言葉を使わずに言えば、「性的に興奮してしまう」。パチ、パチ。パチ。微かに荒くなる呼吸をごまかすように、ぬるくなったコーヒーを啜った。パチ、パチ。爪を切る動きが止まった。薬指と小指を残して。

「どうしたの」
「ねえ、聞いてもいい?」
「……なに」
「あなた、この音が好きなの?」

パチ、パチ、パチ。薬指の爪が切られる。焦らされながら音を聞くのも悪くないと僕は恍惚に浸りそうになるのを抑えて、そうだよと言った。ずいぶん悦さそうな顔をするのね。彼女は気付いている。それ以上言ってしまうと、もう戻れなくなる。

「悪いけど……。あまり、聞かないでくれるかな。こんなの、ペラペラ人に言うものじゃない」
「目の前で爪を切ってくれって懇願したのはあなたでしょ?ねえ、いつからこの音が好きなの?」

目の前の彼女は好奇心と加虐心の入り交じった表情で僕を覗いた。興醒めだ。醜い顔など見たくもない。

「ねえ、何がきっかけなの?興奮してるんでしょ?あなた。変態ね。ほら、」

パチ、パチ、パチ。最後の手指の爪が切られた。追い打ちをかけるように、彼女は足の爪を切り落としていく。パチパチパチ、パチパチパチ、パチパチパチ……。勢いよく十本全ての爪を切り終わると、彼女は僕の股間を見て、また変態と言った。

「僕が十歳の頃、」
「え?」
「僕は母と電車で街へ出かけた。贔屓にしている画家の展覧会があるとかいってね。僕は先頭車両で、座席に座って窓の外をずっと眺めていた。しばらく走って電車がどこかの踏切を超えたとき、突然電車が急停止したんだ。人身事故だった」
「……突然なんの話?」
「窓の外には意外にもなんの異変も感じられなかった。だけど、僕の座席の下……車輪の下からは、パチパチパチという軽い音と、なにかが弾けたり跳ね返ったりする振動が響いていた。僕は、それが、人間が巻き込まれて骨の砕かれる音だと一瞬でわかった。音はすぐに後方車両の方へ伸びていったけれど、僕はこの音を何度も何度も反芻した。2時間遅れて行った展覧会のことなんか、何も覚えちゃいないけど、この音だけはそれからずっと頭の中にあるんだ」
「……やめて」
「僕が初めて精通したのは、その日の晩だよ。あの音を思い出しながら列車の下を想像すると、どうしようもなく興奮して、触らなくたってイけるんじゃないかってくらい」

「爪を切る音は、そのときの音によく似てるんだ」

今僕はどんな顔をして彼女を見つめているのだろうか。彼女の怯えた様からして、きっと捕食者の眼で彼女を見つめているのだろう。でもまあ、いいか。興を削いだ彼女に、責任を取ってもらわなきゃ。

「ねぇ、もう我慢できない……。本当は、君の身体が欲しいんだ」

声を上げる間もなく彼女の細い首は簡単に捩じれた。手に響く振動とあの音で、僕は絶頂を迎えた。

ある罰

「それは、私が最も生きることに困窮していた頃の話だ」

嗄れ声の彼は口を開いた。

「私がまだ21歳のときだ。とは言っても、私は21歳を5年生きた。これは、多少難しい話だから、また今度話そう。とにかく、その5年間、私は、ある国で、兵隊として生きていた」

僕のおじいちゃんは、その青い眼を僕の方へ向けたり暖炉の方へ向けたりしながら、昔話をしてくれた。暖炉のそばには大きな蜘蛛が巣を張っていたから、おじいちゃんはそれを見ていたのかもしれない。

「おじいちゃんはどんな国に住んでいたの?」

「危ない国だよ。お前くらいの子どもはみんな武器を持っていた。ばらばらの国から連れて来られた人間が入り混じった、ばらばらの国さ」

おじいちゃんは細い指をぎしぎしと動かしながら話した。指先を見つめる青い眼は伏せられた瞼で見えない。僕はおじいちゃんの眼が大好きなんだ。青い眼って、とってもきれいだと思わない?
もう片方の、おじいちゃんの潰れた左眼は、暖炉のそばにいたからか、いつもより乾いて見えた。

「お前は、戦争というと、飛行機で空から爆弾を落としたり、ジャングルの中をガチャガチャとかき分けながら進んだりするのを想像するかもしれないね。私が戦っていたのは街の中だった。煉瓦作りの家々の壁には、銃弾の跡が絶えなかった」

僕はおじいちゃんが話している間、お父さんの机に座って絵を描いていた。お父さんから貰ったギターはいい音がするけれど、あまりかっこいい見た目ではなかったから、新しいデザインを考えていたところだった。黒いクレヨンを手に取ったところで、僕は手を止めて、おじいちゃんに聞いた。

「銃弾って何色なの?」

「銃弾は、鉛色だよ。お前の右腕にある時計と同じ」

僕は黒いクレヨンを置いて、代わりに白を選んだ。

「みんな、戦時中というとまるで月面のような世界を想像するけれど、それは違う。戦時中だって地球は地球さ。空は青いし、葉は緑だし、血は赤い」

「夜は?」

「夜は藍色。それも今と同じだ。星の並びも変わらない」

言いながら、おじいちゃんは暖炉の中に刺さった火掻き棒を手に取って、側の蜘蛛の巣を払った。真っ赤な火掻き棒の先端は、またすぐに暖炉の中に戻る。

「戦争の間、毎日毎日人を殺した。代わりに、何人もの仲間が殺された。みんな紙切れに名前と死んだ日時を書いて、それでおしまいだ。ある男の人生はそうして一枚の紙になってしまう。女たちは毎日、死んだ男の名前をタイプして、金をもらっていた」

人の名前を書くだけの仕事は退屈そうだな、と僕は思った。

「そんな倫理も道徳もない銃弾だらけの街で、ある日、ひとりの貧しい老人が製鉄所から鉄くずを盗んだ。その頃は、鉄くずといっても価値は高かったから、盗むやつも多かったんだ。ただ、その老人はすぐに捕まってしまった。そして、兵器の元となる鉄を盗んだという重い罪で、正式な裁判にかけられた。罪のない人間が毎日殺される街で、その老人は見せしめのために、銃殺刑を受けた」

皮肉なものだ、とおじいちゃんは呟いて、笑った。

僕は、皮肉、という言葉がどういう意味なのかはわからなかったけれど、その老人がどうしようもなくその鉄くずが欲しくてたまらなかったということが、僕と同じように思えて、嬉しかった。僕はその老人と、いい友達になれそうだ。

さみしいときはローズマリーを焚くの

足が長く美しい妻、スーツの似合うハンサムな夫、そして理知的な顔つきでバーバリーの洋服を着ている二人の子ども。マネキンのような四人家族が私の目の前のテラス席で朝食を食べていた。
焼き色の素晴らしいトーストに妻は紅茶を、夫はブラックコーヒーを飲みながら新聞を広げている。子どもたちは、おとなしく、けれど食事の楽しみを忘れないような会話をしながら、背筋を伸ばしてベーコンサラダを食べている。「ガラスでコップを作れるんだって。楽しみだね」「うん、とても。お父さんは、今日もお仕事なんだよね。お父さんのぶんもじょうずに作るから、お仕事がんばってね」新聞から眼を離して子どもたちを見ながらコーヒーをすする父親は、落ち着いた優しげな表情でありがとうと言う。薄い唇は自然な笑顔を作る。妻はそのやりとりを幸せそうに見つめながら紅茶を飲み、時計を覗いて「あなた、そろそろじゃない?」と言った。「ああ」新聞をたたみ、子どもたちに上着を着せると、私の隣を通り過ぎて四人家族は店から出て行った。ローズマリーの香りを残して。
すれ違いざまに店へ入ってきた女性は、一見すると少年にも見えるような短い髪をして私の前へ座った。前髪の下の長くした睫毛と色づいた唇で、やっと女性だとわかる。
「おはよ。で、詩は書けた?」
「……あの家族、」
「は?」
少年じみた彼女は私の言葉に怪訝な顔をして、すぐに振り返ってからまた答えた。
「ああ。今の家族?マネキンみたいな家族だったな」
「うん。あの家族、きっと幸せにならないだろうから、あの家族が幸せになるはずだった未来を歌おう」
四人家族が座っていたテラス席へ向けた携帯の録画ボタンを止めて、ノートの左側をすべて破り捨ててから、まだ白いノートの左上にタイトルを書いた。きっと愛しい曲になる。

美しいと思っていた彼女は近くで見ると化粧が浮いていたし、眼を合わせると白目はボンヤリと黄色かったし、キスをすると歯並びの悪さが舌に伝わった。

シャワーから戻った彼女の頬は上気していて色っぽいが、それだけだ。化粧を落とした彼女の顔は整ってこそいたが、個性もない。この程度の顔は五万といるだろう。話もたいしておもしろくない。感情のこもらない相槌を気にすることなく、興味のない話を楽しそうに喋る姿は壊れたブリキ人形を思わせたが、聞き心地の良い声だけが救いだった。
僕はいつのまにか眠っていた。


ずっと好きだった人だ。職場で知り合って一年、僕はゆっくりと彼女に気に入られる努力をしたし、不自然じゃない程度に彼女の近くにいるようにした。彼女はよく仕事ができて毎日素敵な笑顔を僕にくれた。僕が疲れているときはコーヒーをくれて、僕のやる気があるときは協力して頑張ってくれた。それは特別僕にだけというわけではなかったから、彼女を狙う輩は少なくなかっただろう。気が利く素直な女性だった。とても魅力的な人に思えた。

長いことかかっていた大きな仕事が片付いたとき、僕は初めて彼女を食事に誘った。食事といっても、近くの居酒屋でちょっとした打ち上げをするだけのものだったが、二人きりの時間はとろけるように楽しかった。僕はその日、舞い上がって服を着たまま風呂に入ってしまったくらいだったから。仕事の話はもちろん、彼女の家族の話や人生観の話、映画や本や音楽などの話をした。僕と音楽の趣味は少し違っていたけれど、違う部分も、嬉しく思えた。

彼女から教えてもらったアーティストのCDをレンタルした。通勤途中に聴くようになると、心なしか彼女のような性格に近づいている気がした。なんとなくキビキビと動ける気がしたし、笑顔も増えた。

それから何度か仕事終わりに食事に誘った。食事に行くようになってから、彼女と僕は少しずつ特別な関係になっていった。職場でも、彼女は僕に対して、微妙だけれど明らかに親密さのある話し方や笑顔を向けるようになったし、僕も彼女に対して、他の社員と比べて心を開いていた。稀に、個人的な悩みについてメールをもらうようにもなった。頼られている気がして嬉しくて、彼女のためになりたいと、ほとんど寝ずに彼女の悩みを聞き、解決方法を模索した夜もあった。


彼女が音楽を聴きながら出勤してきたときチラリと見えた再生中の画面に、僕が薦めたアーティストの名前が見えて僕はドキリとした。ドキリとしたあと、顔が熱くなった。「おはよう」「おはよう」平静を装いながら、僕はいまキチンとおはようが言えただろうか?自分の声が遠かった。彼女も僕と同じだったのだ!僕は彼女の好きなアーティストを聴き、彼女も僕の好きなアーティストを聴いてくれていたのだ。僕がそうであるように、彼女も僕を構成する一部分を取り込んでくれていることを、一人喜んでいた。


そして、ある冬の夜に、僕は彼女に告白した。


彼女は少しの間フリーズしていて、口を開け、閉めてまた開けてから二秒後に、やっと返事をしてくれた。僕は思わず彼女を抱きしめてしまった。ああ、本当は、もっとゆっくり時間をかけて彼女に触れようと思っていたのに。そんな決意も忘れて、彼女をきつく抱きしめた。彼女は苦しそうに、それでも嬉しそうに、「苦しい」と言った。

それから半月、僕たちは初めてキスをした。軽く軽くキスをした。そしてまた半月して、今度は深いキスをした。そして一ヶ月して、僕は初めて彼女の裸を見た。彼女の裸はキレイだけれど、ところどころ古そうな小さい痣があったり、あばらが薄く浮いていたりした。肌は白くて柔らかかった。僕はとても時間をかけて、ゆっくりゆっくり、彼女を解した。彼女の声は控えめだったけれど、艶のある声だった。汗の香りに、興奮した。

 

彼女とセックスをしたのはこれで何度目になるだろう。愛を伝えるための手段であったセックスはもはやここにはないのかもしれない。僕は彼女に慣れきっていた。彼女がどう思っているかは知らないけれど。彼女の内側を知るうちに、出会った頃感じていた特別な感情がどんどん薄れてゆくのを感じていた。特別だと思っていた、彼女の笑顔や素直さやセンス、優しさや一生懸命な性格は、彼女を手にした今、冷静に周りを見渡せば少なくない数の人間が持ち合わせているようなものだったし、彼女の美しさも特別なものではなかった。不思議なことに、今まで気がつかなかったけれど職場には彼女より美しい女性は何人もいた。彼女の素晴らしいと思えたはずの人生観はよく聞くとところどころ穴があったし、日によって主張が違うことも何度かあった。彼女も不完全な人間だったのだ。周りと同じだった。特別な所なんて、どこにもないのだ。僕はもう、彼女がどうして好きだったのか、思い出せなくなっていた。思い出すために、セックスをした。変わらないのは身体だけだったから。


狭い部屋に「好きだよ」という声が響く。彼女の控えめで高い声が響く。全てがウソだった。思い出すためのウソだった。