アルタイルの恋

その場所は、掘るといっそう湿った土の匂いがした。土を掬うシャベルのふちは不思議と泥を寄せることなくメノウのように滑らかで、月明かりに照らされるとまるで濡れているのかと見紛ってしまう。最後に見た彼女の瞳もずっと濡れていた。つるりとした黒い瞳…

狼女

あ、きた。 全身の血が粘性を持ったような感覚は、満月と共に周期的に私の身体を流れる。頭にかかるもやは冷静さと私を切り離し、ある香りへの執着を蘇らせる。青臭い香りと、鉄錆の香りを、私は求めていた。 「ねえ、君の彼氏、心配してるよ」 青白く脈打つ…

いつまでも幸せだった

「あーほら、またこぼしちゃうわよ」「あーんして。そう、いいこいいこね」 母の料理はとても上手で、僕は子どもの頃から母の料理が好きだった。生まれてすぐの僕が写っている色あせたアルバムには、母の離乳食を美味しそうに食べる僕の姿があった。大掃除の…

性癖

古い枝の折れる音を最後に聞いたのはいつ? 僕は爪切りを差し出しながら彼女にそう問いかけた。彼女は爪切りを受け取りながら、僕の言葉の意味がわからなかったようで再び聞き返す。 「だから、ね、枝の折れる音を最後に聞いたのはいつだったか、覚えてる?…

ある罰

「それは、私が最も生きることに困窮していた頃の話だ」 嗄れ声の彼は口を開いた。 「私がまだ21歳のときだ。とは言っても、私は21歳を5年生きた。これは、多少難しい話だから、また今度話そう。とにかく、その5年間、私は、ある国で、兵隊として生きていた…

さみしいときはローズマリーを焚くの

足が長く美しい妻、スーツの似合うハンサムな夫、そして理知的な顔つきでバーバリーの洋服を着ている二人の子ども。マネキンのような四人家族が私の目の前のテラス席で朝食を食べていた。焼き色の素晴らしいトーストに妻は紅茶を、夫はブラックコーヒーを飲…

美しいと思っていた彼女は近くで見ると化粧が浮いていたし、眼を合わせると白目はボンヤリと黄色かったし、キスをすると歯並びの悪さが舌に伝わった。 シャワーから戻った彼女の頬は上気していて色っぽいが、それだけだ。化粧を落とした彼女の顔は整ってこそ…

消える時間軸と歪む空間と意識(九月五日編)

重力のある星に住む私たち全人類からすれば宇宙空間に存在するものを理解することは到底不可能であろうし、第一に「浮遊」という感覚を知ることは微塵もないだろう。Macintoshの初期設定のままの壁紙をぼんやりと見つめながらそう思う。二次元の宇宙空間に思…

四年前の十月

乾いた愛の音を聞いている。「コーヒー飲む?」「うん」砂糖とミルクの配分など既に覚えてはいないけれど、偽りかもしれない愛の記憶を頼りに手を動かせば不味くはなさそうなコーヒーが入った。不自然に二人を詰め込んだリビングルームで無言の雑音をBGMにコ…

ボランティア

「おはようございます」 粘つく朝の挨拶は虚しく滑る。45リットルのゴミ袋はたちまちに埋まってゆく、街中に散布された人間の悪意を僕は毎週金曜日の早朝にかき集めては捨てるのだ。駅へ向かう人々の眼に自我を見ることはできない。正確な周期に基づいて自ら…

金環日食

太陽だって穴は空くんだ。 乾いた白米の塊を水で流し込みながら暗くなった明け方を肌で感じる。水はいつも通りカルキの臭いで濁っている。五月二十一日。何曜日かは忘れてしまった。高い声の群れが微かに通り過ぎるからきっと平日だ、そして恐らく彼らは僕と…

とまれみよ

それは冬を告げるランプが僕に合図するのと同時だった。大きく弧を描いた星座は進むべき方向を示してくれていたから僕は何の心配もなく森を抜けることが出来た。走ることに慣れていないせいか不安とは関係なく心臓は強く僕をノックする。扉を開けるわけには…

浴槽の中だけが私の

蒸気した頬に籠る音楽に溶ける。左肩を撫でる水面、右耳を犯す水音、膝を折り曲げ不自然に首を曲げながら左手は外の音楽に合わせて水面を叩いている。私を閉じ込める蓋が青く透けて酸欠状態の私に優しく映る、手を伸ばしたら水滴が指を伝って肘で溶けた。晴…

メリークリスマス

彼女の細い指に似合うだろうピンクゴールドを温めながら横浜駅で彼女を待つ19:54。日曜に仕事のある僕に合わせて20:00にいつもの場所で待ち合わせた。間抜けな着信音と共に[もうすぐ着くよ]の文字、改札の向こうに見えた彼女は一足遅れて僕を見つけたよう…

ソラナックス

赤みが引かない。 二ヶ月経った。小学生時代の二ヶ月というのはほとんど永遠のように過ごしていたのにいつのまにか時間の早さに追い抜かされてしまっている。赤みが引かないのは追い越すことが出来ない証だ。痒くはない。五年前の身体ではないことに季節を追…

笑っちゃうほど生きてる

都会に長く住みすぎたせいか、私はいつしか虫を嫌悪するようになってしまった。虫に対する好奇心は無機質なコンクリートに埋まりギラギラとしたネオンを愛すうち虫の美しさを思い出す事もなくなった。蝶や蛾の二つとない羽模様や削れる鱗粉や不規則に羽ばた…

いつも

「気持ちいいよ」 君は一体何人の男に同じ言葉を吐いてきたのだろうね。そう問うと僕の下に転がっている彼女は二重を滲ませながら 私でもわからない、と唇を歪ませて言う。とうもろこしのように並んだ歯の間からこぼれる喘ぎ声に溶けて生々しい室内温度。実…

今日

こういう風に感情を爆発させてみたって結局は自分、誰も見ていない、だからかも知れないけど。嫌だし私は幸せだよ、そうやって自分を騙している、のかもしれない。見えないふりをしてきた。何も感じないふりをしてきた。私は私でないふりをしてきた。声を出…

現代の少女の感情

頭上から降ってくる声は苺の匂いがした。甘ったるくて爽やかで、甘いものが嫌いな私は軽い胸焼けを起こしながら突っ伏した机の底から深い溜め息を吐き捨てた。 「だから私と付き合えばよかったのに」「黙れ。死ね」 甘い言葉には辛辣な言葉がよく似合う。冷…

y=ax2+bx+c

放物線の計算式などもはや覚えてはいないから体現してしまうのが手っ取り早いと思ったのです。上履きは週末に洗いました。つま先の汚れがなかなか落ちなかったので二時間ほど風呂場に籠っていたら塩素に身体が痺れました。気持ちよかった。教科書126p側頭葉…

最期

ガチャ、パチ、ポチ、ポチ、プルルルル………………「……ああ、俺だけど、うん」 くすんだガラス越しに見える湿った夜は肌に密着するようで不快だ。受話器を持つ手がべたつくのは日本特有の気候のせいかはたまた俺の心理状態のせいか。電気信号に変換された懐かしい…

発狂

あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ…

天使の声

先端恐怖症の俺でもスプーンの先なら丸くて怖くないと思ったんだ。沸騰した血液に追い立てられるようにスプーンの弧は穴へ吸い込まれていく。視力検査を思い出して右目で彼女の大きく開いた瞳を視認すると答えの代わりに出来るだけ優しく笑ってやった。痙攣…

二百人記念

[09081922625] 着信履歴に並ぶ数列はそれ以上の意味を持たない。月の影でさえ私を照らすことはしないのだ。夜に嫌われた私は吐瀉物にまみれた高架下でじっと息を潜めている。 エレクトロな着信音が私を叱る。兎のように耳を逸らして豚のように怠惰を貪る。身…

恋愛

蒸し暑い部屋の中央より少々左に寄った西日の激しいベッドの上で一定速度の上下運動を繰り返す右手をじっと見ていた。その右手の持ち主は汗でよれたエロ本を左手に丸めて時々籠った溜め息を吐く。ズボンのチャックだけが下ろされていて他に着衣の乱れはない…

多色病

都会は生きている。コンクリートに固められた俺の心臓も耳を当てれば微かな鼓動が聞こえるだろう。ただ残念なことに俺の両耳は取り外しなど出来ないから俺の心臓が正常に動いているかどうかを確認することは出来ない。寂れたネオンに炙り出された紫がかった…

どろり

最早手の届く範囲でしかはっきりとした輪郭を捉えることは出来ない。それも指先は既に蕩けているから私の理解できる世界はせいぜい半径50cmてなもんだ、腕の中には何もない。誰もいない。一人分の皮膚のはりつく音が八畳の部屋に響くだけだよ。

アーメン

私はいつまで不自由した生活を送っていくんだろうと思ったけど、自由な生活を送っている人間なんているのかしらね。他人がどうだろうと自分の状況に変化はないから特に関連付けて考えるつもりはないけど。あなたが哀しんでいても私は楽しいし私が泣いていて…

人間

わたしあなたみたいなひとしってる。いつも人の悪口ばかり言っていて、愚痴が多くて、しゃべり方が暗くて、プライドが高くて、人にバカにされるのを嫌っている上に、周りからどう思われているのか、異常なほど気にしているんでしょ?異性と話をすることなん…

到来

大きな樹の下では雨が降っている。舞うように振る大雨に打たれて俺は傘を忘れたことを悔やんだけれど俺と同じように傘を忘れて佇んでいる女の姿があった。黒く長い髪が女の横顔を隠している。女の髪は妙に艶めかしく俺の心臓はいつもと異なる跳ね方をするの…