防音

フォルテッシシモな俺の感情を見ていてくれる奴はいないしこれからも見込みはない。
鼓動がペザンテで打っている時だって大量の薬を飲んで一人指揮棒を振るだけで電気信号は音楽になる。

「+++」
肩を叩く衝撃で外部の音に気付く。そこに立っていたのは物心ついた時から見覚えのある顔であったが記憶にあるよりも随分不快な顔をしていた。
床に落ちていた薬のフィルムを踏む金属的な音が耳障りで俺は部屋から***を追い出す。
「何か用」
「お前、連絡くらいしろよ」
聞けば随分前から俺の部屋にいたが呼んでも呼んでも返事が無かったらしい。なるほど不快な顔をしている理由がわかった。
俺の音楽は届いていたのだろうか。俺の電気信号は空気振動に変換されていただろうか。わかっている、そんなはずは無い。
「おい、聞いてんの」
「聞こえないよ」
聞こえないと言ったのに目の前のそいつは俺に向かって流暢に喋り始めて二週間も大学に顔出さないで何してんだとか連絡くらい寄こせだとか死んでるかと思っただとか実に勝手な考えを投げつける。
人を勝手に殺すんじゃねえ。はいはい俺は元気だよこの通り。この二週間でタクトは新調したしスピーカーの精度も弄ったしフィルハーモニア管弦楽団のレコードも買ったし薬だって大量に調達したよ。
「なあお前こんな所で一人なにしてんの」
「俺には黒板くんがいるから一人じゃないよ」
「俺がいんのに黒板を生かすなよ。文字だってただの石灰の粉だよ。わかってるんだろお前も」
勝手に人の部屋に上がり込んでいきなり俺の親友の黒板くんに文句つけるなんてお前がこんな失礼な奴だとは思わなかったよ。悪いな黒板くん。気にしないでずっと五線譜に音符を連ねていていいからね。
沢山の色を使ったりして音才だけじゃなく色才まであるんだねすごいやさすが俺の親友だななんて黒板くんを褒め称えていたら***は眉間に皺を寄せて帰ってしまったようだった。
あいつも昔はあんなじゃなかったんだけど。いつから変わっちゃったんだろう、ごめんね黒板くんあいつも悪い奴じゃないんだ許してやってよ。

 


人は空気振動みたいに素直な波長を持っていないから何にしてもまったく予想が出来ず楽譜にも表せないことが俺にとってはもどかしくて苛ついて寂しかった。
ただそれだけだったけれど俺の意識にいつももどかしさ苛つき寂しさが根を張るようになってから、古ぼけた五線譜の書かれた黒板が生き生きと話しかけてくるようになった。
気がつくといつも黒板には鮮やかな音符が並んでいる。視覚に映る音楽記号は俺を見守って理解してくれる。いつしか黒板は俺の心の支えになった。


部屋に入るときに、俺は見ていた。+++がぶつぶつと呟きながら黒板に何かを描いているのを。とうとう気が触れてしまったのか、しかし+++の表情は柔らかくて優しかった。
なにか大切なものをみるような眼で、繊細なものを扱うような手つきで、黒板を愛でていた。内の世界に引きこもる+++を見て俺は反比例して哀しくなった。


鼓膜の振動が神経を興奮させない程度の精神状態に陥っている。何日こうしているだろう。部屋中が音楽で満たされている。俺の隣には黒板。
黒板が発する言葉はだんだん色濃くグロテスクになってきて、ああ、お前も寂しいんだな大丈夫だよ俺がいるよ。どこにもいかないよ。
優しく黒板を撫でる。掌には厚く石灰が付着した。俺みたいだと思った。おれみたい?あれ、もしかして、これ、もしかすると、

肩を叩かれて振り返ると、何日か前に見た顔がこちらを覗いていた。俺と眼が合った瞬間に、目の前にある顔はなぜか哀れんだような表情になった。

「    、  」

え?なんて言ってるの。だめだ全然聞こえなくて。お前の言ってることはもう解らないよ。これからもずっと解らないよ。今までも解らなかったよ。
石灰だらけの手を伸ばすとそいつの身体は汚れてしまった。そいつは避けることはしなかったけど、俺は何故か哀しかった。哀しいなんて感情は、久しぶりだった。
俺は少し、動揺した。心臓が早く打ち始めて、頬が冷たくなった。「溢れる」という言葉がぴったりだった。
震えがとまらない俺を、***は明るい外の空気に晒してくれた。俺が落ち着いたのを見るとあいつはすぐに帰ってしまったけど、なぜかあの日のことは色濃く記憶に焼きついている。

 

防音効果を高めるために窓を塞いでしまったために陽の光も入ってこないしもちろん外の音も聞こえてこない。今日が何日で今何時なのかすらわからない。
何十時間も部屋の空気は巨大なスピーカーによって震わされていて、俺は既に薬を飲まないと睡眠が出来ない身体になっているから最後に眠ったのはいつだったか。
タクトを振りながら黒板と交わす会話は弾みに弾む。色とりどりな言葉を交わすうちに、黒板は眩しいほどに鮮やかになり、下地の緑はかき消されていく。
ねえ黒板くん。俺ね、お前が好きだよ。すごい好きだよ。もうどうしようもないくらい好きだよ。俺の言いたいこと伝わってる?ねえ。ねえ。ねえ。
伝えたら伝えただけ鮮やかに返してくれて好き好き大好き愛してる。

(なのにどうしてかなどこか非常に微妙な点において心に欠けるものがあるのは)

そんなものはただの誤解で求めれば求めるほど際限が無くなってゆく人間の我侭なんだろう。大丈夫だよ俺はお前を捨てたりしないよ愛してるから。
ねえ黒板くん。   黒板くん?「愛してる」って俺の言葉届いてる?どうして何も言ってくれないの。どうしたの黒板くん。返して返して。ねえ。
なんの返答も無くなった黒板にすがるようにして触れた左手には真っ赤な石灰。あれこの状況前にも、そうだ俺、あの時なにか気付きかけたんだ、そう、おれみたいだって。おれみたい。おれみたい、?
頭の片隅に現れた等式を意識した瞬間俺の心臓は痛み出した。 (黒板=俺)、。?
飽和状態になった緑の板に向かう俺の手には短いチョークが握られていた。

 

見慣れたはずのその部屋は真っ赤に染まっていた。くしゃくしゃになった金属のフィルムや既にどす黒くなった楽譜があちらこちらに散乱している部屋の中しばらく呆然としていると不意にそれに焦点が合った。+++だった。
粗大ゴミのように部屋の真ん中に打ち捨てられた+++は、俺の震える声なんかじゃぴくりとも動かない。感覚のない腕で+++を乱暴に抱き起こすとそいつの口の中には赤く染まったカプセルが残っていた。
手を握ったのは無意識だったが半凝固した血液とは違う粉っぽさが俺の思考回路を冷静にした。
(ああ、こいつは、気付いてしまったんだな。)

救急車を呼んだのは、それから3秒後のことだ。
その間+++の胸は一度も上下しなかった。